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平和を祈り続けた日本画家・平山郁夫

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平山郁夫

平山郁夫の生い立ち

1930年6月15日、広島県生口島に4男5女の3番目として生まれました。
平山家は300年以上も続く旧家で、菩提寺の寺伝によると、初代の柴田孫左衛門は、かの有名な戦国武将・柴田勝家の孫だとされています。

生口島は瀬戸内の温暖な気候に恵まれ、国宝の向上寺三重塔など、歴史ある寺社が多い自然豊かな島です。
この地で平山郁夫は多感で探究心旺盛な少年時代を過ごし、美しい風土と信仰心の厚い両親の愛情を受けて育まれた美意識と感性は、後の画業に大きく息づくこととなります。

戦時中の被爆体験

太平洋戦争が勃発。
戦時中には学徒勤労動員方策が定まり、少年時代の平山郁夫は病弱な体をおして自ら志願し働いたといいます。
1945年8月6日、広島市の霞にあった広島陸軍兵器補給廠の材木置き場での作業中に原子力爆弾が投下されます。
爆心から4km程の場所での被爆
一度爆心から2km程の寄宿先に戻ったり、比治山橋の近くまで様子を見に行くなどした後、地獄絵図さながらの広島を逃れて生家に向かい、翌朝帰りつくことができたといいます。
15歳の少年が受けた、生涯にわたり心と身体に残る経験であり、現代に生きる私たちには想像もできない壮絶な体験だったことでしょう。
この経験が平和を祈る心、後の『仏教伝来』や『シルクロードシリーズ』の制作に繋がります。

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戦後直後の広島

画家としての活躍

17歳の時に東京美術学校(現在の東京藝術大学日本画予科に入学します。
卒業後には美術学校の日本画科で、当時の教授であった前田青邨の助手として働くこととなります。
1952年には院展に応募しますが落選。
しかし、翌年の院展で前年と同じテーマである「家路」で入選し、以降も入選を繰り返します。
順調に画家としての実績を積み重ねていましたが、原爆の後遺症により白血球が通常の半分になり、貧血状態が続くなど体調を崩す時期もありました。
いつ自身の命の灯が消えてしまうかも解らない恐怖との戦いの日々だったことでしょう。
そんな中、新聞の「オリンピックの聖火をシルクロード経由で運んでみては?」という記事から絵の着想を得ます。
その着想を得て描かれたの『仏教伝来』であり、後の『シルクロードシリーズ』へと繋がっていきます。

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まとめ

平山郁夫の作品の代表的なモチーフはシルクロードと故郷である広島です。いずれも平和への願いが根底にあります。
平山郁夫自身が実際に戦争を体験しているからこそ、平和への願いというものが上辺だけではない本心からの願いだということが、見る者に感動をもたらす魅力なのだと思います。