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日本人に最も愛された画家 東山魁夷

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日本画家・東山魁夷

日本画の巨匠・東山魁夷

昭和を代表する日本画家であり、風景画の分野では国民的画家とまで呼ばれる東山魁夷
史上最年少の60歳での文化勲章受章者であり、現在でもその記録は破られていません。
印象的な色彩『東山ブルー』と呼ばれる青や緑を使った美しい風景画は、見る者の心を揺さぶり、自然への畏敬の念を感じさせてくれます。

東山魁夷の生い立ち

1908年7月8日、船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として神奈川県で生まれ、本名は新吉、魁夷という名前は雅号(文筆家や芸術家などがつける名前)です。
父親の仕事の関係で3歳のときに一家で神戸に引っ越します。

中学校に通う頃より画家を志し、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学しますが、当初父親からは画家になることを反対されていたようです。
日本画という条件つきで画家の道に進むことを許され、1933年に東京美術学校研究科を修了します。

当時の日本画は「線」で描くのが主体でしたが、西洋絵画の「塗る」という手法が伝わり日本絵画は変革期にありました。
東山魁夷も積極的に日本画と西洋画の両方の技法を学んだといいます。

ドイツへの留学

1934年に日独間で交換留学制度が開始され、第1回目の留学生としてドイツ・ベルリンへ2年間の留学をします。
西洋美術史を学び、欧州で刺激を受ける日々を送っていた最中、1935年に父親の危篤の報が入ったこともあり、奨学金支給期間を1年残したまま日本に帰国しました。

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ドイツ・ハイデルベルク

1940年には日本画家の川﨑小虎の娘すみと結婚。
同年、東北地方へのスケッチ旅行で足を延ばした種差海岸(青森県八戸市東部)の風景とそこにいる馬に取材した『凪』を紀元二千六百年奉祝美術展に出展した。
種差を題材にしたと思われる作品は生涯で17点ほどあり、馬も東山作品の代表的なモチーフとなります。

困難と絶望、人生の岐路

太平洋戦争に前後して、画業でも家庭でも苦難が続くこととなります。
父親、母親、弟を立て続けに亡くし、天涯孤独となってしまった上に、父親の残した多額の借金の返済に追われることとなります。
太平洋戦争に魁夷も招集され、特攻兵として明日の命をもしれず厳しい訓練を余儀なくされました。
戦争での過酷な経験と愛する家族の死が、魁夷の心に大きな消失と絶望感を抱かせたことは想像に難くないでしょう。

精神的な苦しみや焦り、経済的にもどん底の状況でもがく中、これまで続けてきた努力が実る転機が訪れます。
第3回日展で「残照」という作品が特選を受賞。
魁夷が39歳でのことでした。

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東山魁夷『残照』


戦争により、見慣れた美しい風景が一瞬にして消え去ってしまうのを目の当たりにしたことで、一期一会の思い出の風景を書き留めておきたいという思いが、見る者の心に響くものがあったのでしょう。
これを機に、魁夷は風景画家として歩んでいくことを決意したといいます。その後、1950年の第6回日展に「道」を出品。
この作品が大きな反響を得て注目を集め、人気作家として画壇の頂点へと昇り詰めていくこととなります。

まとめ

意外と知られていない画家の苦労。
多くの苦難を潜り抜けた経験と、後世に残していきたいという思いや情熱が、現代でも多くの人に感動を与えているのでしょう。
画家の生い立ちを知ることで、また違った視点で絵画を楽しめるかもしれませんね。